柳と喧嘩をすることはめったにないけれど、一度お互いの感情がぶつかりあうと、この寡黙な人はその薄いくちびるをさらに薄く噛みしめて、貝のように黙りこんでしまう。無言で本を片手に、あさく藤の椅子にすわる姿からは、怒っているようにはとても見えないけれど、徹底してこちらに視線を向けない様子は、私をひどく傷つける。同じ空間でそれぞれのことを行っている時でも、いつもなら気づけば労りを含んだ優しい視線を、肌の上に感じることができたのに。
              
この美しい人は、眼差しひとつで「 愛されている」という私の自尊心をへし折ってくれる。

              
喧嘩の理由が何だったのか..........最初から順序たてて考えて、自分の言い分を説明しようと思ったけれど、理路整然とした彼の文句のつけようのない逆襲に、最終的に語尾が自分のヒステリックな声色にかき消えるだけだとわかり、思いとどまった。いつだって彼は冷静で正しく、この人を怒らせる私の方が異常なんじゃないか?と思わせる、柳蓮二はそういう人だった。
今では牢獄のようになった和室を後にし、のどの渇きをおぼえた私は何も言わず静かに廊下にでた。意地をはって正座していた両足が痛く、情けない気持ちで廊下をわたり、来客用のお茶と給湯器がおいてある部屋にむかう。この広い柳家は来客が多いせいか、それようにきちんとおもてなしがされており、わざわざ家人が使う物を共有するということはない。今日は誰もいないので全て自分で行うけれど。

              
ミネラルウォーターを和風のグラスに注ぎ、半分を一気に飲みほす、考えすぎた頭や行き場の無い怒りがそれで少し和らいだ。こちらから謝るにしろ、自分の意見を主張せず無言を貫き通すにしろ、どちらにしても、何だか彼の手の上で踊らされている感じが否めなくて嫌だなと思う。大抵の友人達にはきく、全てを水に流してうやむやにするという方法も、何事もおろそかにしない柳にはきかない。

              
「このまま帰ろうかな......」

              
来客用の茶葉が置いてある棚をぼんやり見つめながら、そんな馬鹿に寂しい事すら考えてしまう。ふと、立ち並ぶ銘茶の中に見慣れない西洋風の茶缶を見つける。柳家は基本的に日本茶を主に来客に出すので、紅茶はめずらしいのだが、その中でもその可愛らしい乳白色の茶缶は目立っていた。気になって手に取ってみるとそれは自分もよく知っている銘柄だった。


「F&Mのバニラティーか」


まだ未開封で、その芳醇なバニラの香りは閉じ込められたままだった。柳の優しい母か、それとも美しい姉が買ってきたのだろうか?そう思い、茶棚に戻そうとした瞬間、数日前に柳とした他愛のない会話を思い出す。何気なくはいった百貨店、彩り良く並べられた輸入茶葉のコーナー、ふと手に取ったF&Mの紅茶。

              
「私、これ好きなんだよね、バニラティー」
              
「ほう、そうなのか」
   
           
笑顔の私と、目を細める柳の姿がフラッシュバックする。まさか、と思いながら再度茶缶を眺める。包装も缶も真新しい様がよけいにあわい期待を抱かせる。部屋をあとにしてから、数分がたっていた。あの寡黙な人はまだ沈黙したまま本に視線を向けているのかしら?
来客の身で未開封の物をあけるのには抵抗があった。しかし以前「来客用の茶葉は好きに使ってね。」という柳母の言葉を思い出す。しばし考え込んだ後、その言葉を頼りに、私はその真新しい包装に手をかけた。お湯をわかす時間を、これほどもどかしく感じたのは初めてだった。


              

柳は数分前とまったく変わらない姿勢で、藤の椅子に座っていた。変わったと言えば右手にあった本が左手に移ったぐらいだろうか。あいもかわらず視線はこちらを向かない。きっちり2人分のバニラティーをテーブルに置くと、芳醇なバニラの香りがたちまち部屋に漂う。


「どうぞ.........」

   
小さな声で私は言った。安部公房「秘密」の初版から顔を上げた柳は、数秒湯気を立てる茶器を眺めると、ゆっくりとした動作でそれを手にし、口元に持っていった。そしてまた数秒の後、薄いくちびるに金色の液体が吸い込まれる。私もお茶を両手で手にもち、その甘い熱さを飲み込んだ。無言の二人に漂う気まずさを濃厚なバニラの香りが包み込んでわずかに溶かしてゆく。

              
「良い香りだな」

              
長い沈黙を破り、恋人はその低い声色でつぶやいた。
そして一筋の光のような視線が、真っすぐ私を射抜いた。
              

「お前の言っていた通りだ」

              
やはりそうだったのかと思い、そうして見開かれたこの人の目の色の深さに見惚れる。体の力が抜けて、酸素の薄かったこの部屋で、急に呼吸がしやすくなった。


しばらく二人で向かい合ってお茶を啜っていた。
そして私は少し姿勢を正して、先ほどの沈黙に至るまでの一連の出来事をわびようと思った。



「柳、あのね、さっきは...........」
              
「すまなかったな」
              
「え?」

              
私が切り出すよりも先に遮るように柳が言った、一段高い上からすまなそうな眼差しがこちらを見つめている。

              
「あのような態度を取るべきではなかった、お前を傷つけた」
              
「柳......」
              
「喧嘩をする都度思うのだが.....相手に答えないというのは一番誠実ではないな、恥ずべき事だ」

              
頭を垂れてうつむいた恋人に、私は下から近づいて見上げるようにする。頬を両手で挟めば、その細い顎はすっぽりと私の手におさまり、頭一つ分も背の高い彼がなんだか子供のようで可愛らしく感じられる。許しを請う目に私は囁きかけた。


             
「もういいよ、柳、私は怒ってないよ」
              
..........」
              
「柳が無用な言い争いが嫌いなのはわかってるし、それに私はむしろ喧嘩の理由よりも"喧嘩していると言う事”自体が嫌だったから、だから......もう大丈夫だよ」
              
「................」
              
「ありがとう、ごめんね」

              

背中に腕がまわされて優しく抱きしめられる、柳の首もとに顔を埋め、その暖かい体温を感じながら、ゆっくりとそして徐々に存在を確かめるように、強く抱きしめられる。耳にかかる吐息が甘くやさしい。「この人が好きだ」と思う愛おしさで胸が一杯になる。



「いや、やはりお前は怒るべきだ」


ふいに、少し笑いながら柳は言った。

              
「なんで?」
              
「俺は本当に恥ずべき男だよ」
              
「?」
              
「無言の俺に傷ついているお前を見て、その都度すまないと思う反面....ひどく満たされていく感情もあるのだ」
              
「.......え?」
             
「嗜虐心」
             
「なっ!」

              

急に視界が反転し、人の重みと畳の感触を背中に感じる。私を押し倒して柳がこちらを見下ろしていた。少しいじわるそうな眼差し、長い指で頬をなぞるように触られ、ぞくりと肌が泡立つ。首筋に唇を這わせられ背中に回された腕がシャツの中に入り素肌を撫でる。いい知れぬ高揚感に満ちた視線が私の白い肌に落ちる。今更ながらにこの人はずるいなと思う、眼差しひとつで私を殺し、そして眼差しひとつで私を生き返らせるのだから。

              

時刻は夕刻を迎え、恋人の肩越しに染まって行く茜色の空は美しかった。柳の視線に射止められながら私は身動きもできない。バニラの匂いに誘われた蝶のように、私はただその腕の中で羽ばたき、たゆたった。







090503